昨日は H邸の照明プランニング M邸の浴室&洗面の改装打合せ Y邸の駐車場打合せ
お伺いしたのは二件
お客さんと話していて思うのは
やっぱり その家その人その環境で 話されている事は違っていて
その土地で暮らしていて その家庭環境があって その職場関係があって その社会での立場があって
だから そういう考え方なんだなあ という事
改装でも新築でも 全く同じ事をする事は一度もなくて
商品が同じ(←例えば全く同じユニットバスを注文されるとか)でも
そこに至るまでの経過とか 仕事の仕方とか やっぱり その家その家で違っている
お客さんは 暮らしていく中で どうしていくか その自分の環境の中で考え
自分は 「たてもの屋」の考え方で 話をし
双方 付き合わせて 一つの物を造っていく
子供の頃 なんで勉強しなきゃならないのか 分からなかった
両親からは一度も「勉強しなさい」と言われた事はなかったが
まあ そんなに 勉強するのが好きでも嫌いでもない
学校での成績が悪いよりいい方が「かっこいい」から まあ やった方がいいかな
でも しゃかりきになってするより 中の上位なら良しで
好きな本読んだり 柔道の練習したり 陸上の練習したり
マンガ見たり テレビ見てた方が 良いかな
位の勉強の仕方だった
生きる事を重ねていると なんだか 分かって来たような気がする
勉強するというのは 考え方の整理をする手段を身につける為の方法論のような感じがする
なんか 分かり難い 言い方だなあ~
家庭教師していて感じるのは
数学は数学という「考え方」で社会に関わろうという学問で
物理・化学は 物理・化学という「考え方」で関わろうとし
歴史・地理も その 事実・過去・現実で 世の中を考えようとし
音楽も体育も国語も それぞれの 考え方で 「人の世」に交わる方法論を訴えている気がする
やっぱ 分かり難い 言い方だなあ~
大学院時代の時 研究室で「メイズ」の原本を 勉強していて
微分・積分とかけ算・わり算の 「考え方」が 同じであると分かった時は 超度級の感動があった
フーリエ級数や三角級数は 事象を表現する為に 考えられていて
基本構想は同じである事に気づかされた事も感動だった
有限要素法も その「考え方」で 力学解析しているんだなあ と 感動
大学院時代は 同級生の約半分(20名程度)が いわゆる外国人で
事業の半分は なんか訳分からんが 英語で行われ 最初は訳分からんかったが
使い慣れると なんの事はない 英語っていう考え方で表現方法で 物事を表現しているんだなあ
ますます 訳分からん 言い方になってきた
言いたいのは 「考え方」の巾を広げる為に 勉強をするのだろう という事
ずっと 人を見てきて思うのだけど 確かに「机に座っている」だけが 勉強じゃない
基礎屋・足場屋・材木屋・建材屋・サッシ屋・板金・左官・大工・塗装・掃除・電気・水道
建具屋・クロス屋・瓦屋 みんな それぞれの「考え方」を 持っていて
それぞれの立場で 一つの「すまい」を 造ろうとしていく
その中には 「誰が一番で わしは二番」という 考えはなくて
みんないなけりゃいけない 大事なメンバーで 大事な仕事で 上下関係はないと思っている
職方みんな それぞれの家庭があり環境があり その「職」の関係で 自分に関わってくれている
「わしには出来んから ここやってくれんか」の感覚なのだ
だからみんな一人一人大事な奴等で 愛すべき男達で その中で生きている事が 幸せに感じる
自分は 「お客さんに一番近い立場で 建築全般をちょびっとずつお客さんより かじっていて」
「お客さんにとって 何が一番重要なのかを 最良の道を探し出す」
その「考え方」でもって みんなと交わって行くのだ
なんか 金子みすずの「みんなちがって みんないい」って ホントだなあ
青少年よ
君たちは みんな そのうち「仕事」を持って 社会に交わって行く事になる
今 勉強しているのは
生きて行く・人それぞれの生き方をしていく・交わっていく
その「考え方」を 身につけるのに 非常に重要な事を 勉強しているのだ
と おっさんは 思うのだよ
なんか ますます 分かり難い話になった気がする・・・
まあよい
今日 夜は 内田工務店 「大忘年会In秋芳ロイヤル」
協力業者の面々に「助けてくれて有り難う・これからもよろしくね」の気持ちを送る
39名の職方・関係者・世話になっている人の集いの場
ほんま 「良いやつら」が 集まってくれてる
わしゃ おまえら 大好きだよ
わしゃ おまえらの「考え方」が 好きなのだよ
わしには 出来ん 事を 器用に やるの を 見ると 感動するのだよ
わしゃ おまえら 好きなのだよ
コメント